「唐獅子図屏風」について
皇居三の丸尚蔵館で2024年6月23日(日)まで開催されていた、「皇室のみやびー受け継ぐ美―第4期」を見に行ってきました。

今回は、展示作品の中から「唐獅子図屏風」を取り上げたいと思います。
基本情報
・右隻 狩野永徳作 桃山時代(16世紀)
技法
金箔を貼った上に岩絵の具で描かれていて、雲、地面、岩の下部、獅子の巻き毛にも金が使用されています。
獅子の輪郭は、濃い墨を筆にふくませ、のびやかに描いています。
立ち枯れた木の枝は素早いタッチで描かれ、枯れた葉が数枚付いています。
一方、岩の上半分は濃い緑青で描かれています。
獅子の牙と爪の鋭さや、胸筋が割れている、筋骨隆々とした体で力強さを表現しています。
唐獅子は、現実のライオンの姿ではなく、漢代に中国へ献上されたライオンを元に造形化され、渦巻き状のたてがみなどを加えて東洋画独特のデザインが完成されたものです。
唐獅子のたてがみや眉、体の毛、尻尾などの渦巻き模様は、筆を震わせて描いています。
来歴
元は障壁画でしたが、コンパクトに収納するため、のちに屏風に仕立てられました。
本能寺の変のとき、毛利の高松城を水攻めにしていた秀吉が、和睦のため毛利輝元に送り、明治時代になって皇室に献上されたといわれていました。
しかし、それを裏付ける資料がないため、近年では、秀吉関連の城郭御殿の障壁画であった可能性があげられていますが、詳しいことはわかっていません。
画面右下に、永徳の孫・探幽が「狩野永徳法印筆」としたためていることから、探幽の時代には既に屏風の形になっていたと思われます。
二頭の獅子の関係性について
鑑賞者から見て左側の獅子の特徴としては、次の点が挙げられると思います。
・体が白い。
・体の円形模様(=斑点?)がはっきりしている。
・たてがみの毛量が多い。
・手前の茶色の獅子に顔を向けている。
・手前の茶色の獅子より少し前を歩いて先導しているように見える。
作者の永徳は、実物のライオンは見ていないはずですが、桃山時代には、馬なら身の回りにたくさんいたはずです。
四足歩行の動物の脚の運び方を描くのにあたって、馬の歩き方を参考にしたことは充分に考えられると思います。
また、葦毛の馬は年齢を重ねるほど体の色が白くなり、この絵のように斑点模様がはっきりとしてきます。
これらの特徴から、白い獅子は年長者、茶色の獅子は年少者を表わしているのではないかと思いました。
私は、2020年秋に東京国立博物館で開催された「桃山」展ではじめてこの作品に会うことが叶いました。
そのときから、この2頭の獅子の関係性を次の2つのどちらかだと考えていました。
1.作者の永徳と長男の光信
2.作者の永徳と弟子の山楽
しかし、この作品の発注者が秀吉だということを考えると、この2つとは違う見方ができると思います。
西洋絵画では、絵の発注者が作品の中に描かれていることがしばしば見受けられます。
永徳がそれと同じことを考えたとすると、次のようにも考えられます。
3.秀吉とその後継者
年長者を表わす白い獅子が秀吉で、茶色の獅子が、豊臣家の未来を背負うべき後継者なのではないでしょうか。
この作品は、本能寺の変のとき、毛利の城を水攻めにしていた秀吉が、講和のために毛利へ贈ったという説があることから、本能寺の変が起こった1582年には完成していたと思われます。
1593年生まれの豊臣秀頼はこの時点でまだ誕生していないので、この段階で秀吉が誰を後継者として想定していたのかはわかりません。
あるいは未来の後継者をこの茶色の獅子の姿に表したのかもしれません。
🌸豆知識―狩野永徳とは?🌸
まちがいなく桃山時代を代表する絵師です。
10歳のとき、祖父元信に連れられ、室町幕府の将軍足利義輝にお目見えし、その後、元信から英才教育を施されました。
33歳頃までは、緻密で堅実な細画を得意とし、国宝上杉本「洛中洛外図屏風」や、美しい花鳥図が残されています。
34歳~45歳頃までは、信長、秀吉に仕え、大画面に巨大なモチーフを描いた、‘’大画の時代‘’といわれており、今回展示されていた、代表作の国宝「唐獅子図屏風」もこの頃の作品です。
46歳~48歳で死去するまでは、のびやかな画風から、多忙のために次第に生気を失っていく‘’怪奇様式‘’といわれています。この頃の代表作には、国宝「檜図屏風」があります。
東福寺法堂天井画制作中の時期に病死し、秀吉の命令で弟子の山楽が引き継ぎました。
早すぎる死が惜しまれます。
(『もっと知りたい 狩野永徳と京狩野』成澤勝嗣著 2012年東京美術 を参照しました。)
左隻 狩野常信作 江戸時代(17世紀)
左隻は、狩野常信(永徳のひ孫)が、右隻にあわせて制作したもので、屏風を一双とするため、毛利家が注文したと考えられています。
描かれている唐獅子は一頭のみで、前脚に重心をかけ、後ろ脚で跳躍していて、躍動感があり、無邪気な様子です。
猫が遊んでいたり、昆虫などの獲物にとびかかるときに見せるしぐさに似ているので、身近にいた猫をモデルにしてスケッチしたのでは?と想像が膨らみます。
常信作の左隻は、今回初めて見ました。右隻の永徳作品と比べて資料が少ないのですが、雰囲気は違いますが、こちらも名品です。
🌸豆知識―狩野常信とは?🌸
狩野永徳の次男(孝信)の次男(尚信)の長男つまりひ孫。
15歳のとき、父の死によって跡目相続し奥絵師となるも、叔父安信にはばまれ、長い不遇時代を過ごしました。
69歳以後、狩野派内の地位が上がり、探幽亡き後隨一の実力者と評価されました。
皇居三の丸尚蔵館について
1993年、皇居の東御苑内にオープンした館内に所蔵されているコレクションは、7世紀から現代までの作品、その数は9,800点を超えています。
昭和天皇崩御後の1989年に皇室から国に寄贈された美術品、ほかの皇族方から遺贈された美術品、海外の賓客から献納された美術品の数々で、貴重な名品も多く含まれています。
これらの豊かなコレクションのなかから展示品を選んで、展覧会を年に4回開催しています。
一般的な美術館のイメージに比べて三の丸尚蔵館の展示室は狭く、展示品は一度に30~40点程度です。
しかし、ほとんどが国宝、重要文化財の名品揃いで、その素晴らしさに目を奪われます。
狩野派の作品はいずれも秀逸で、狩野永徳や狩野探幽の傑作が含まれています。
それらの代表が、今回展示されていた、「唐獅子図屛風」です。
また同じく今回展示されていた、伊藤若冲の「動植綵絵」も素晴らしいです。
30編から成る花鳥図の大作で、鳥や魚や花が描かれており、見事な色彩は必見です。
2023年10月より管理・運営が宮内庁より独立行政法人国立文化財機構に移管され、正式名称は「皇居三の丸尚蔵館」へと変わりました。
館内にカフェやミュージアム・ショップはありませんが、入口のカウンターで展覧会の図録を購入することができます。
また、三の丸尚蔵館の向かい側に売店があり、皇居のおみやげや、美術館の関連グッズを購入することができます。
(ソフィー・リチャード著『フランス人がときめいた日本の美術館』を参照)
注意
大手門から入門するとき、手荷物検査があります。
事前にオンラインで日時指定予約が必要で、時間ジャストまで待つ必要があります。
参考文献
・『もっと知りたい 狩野永徳と京狩野』成澤勝嗣著 2012年 東京美術
・『もっと知りたい 狩野派 探幽と江戸狩野派』安村敏信著 2006年 東京美術
・『フランス人がときめいた日本の美術館』ソフィー・リチャード著 2016年 集英社
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