アルフレッド・シスレー_風景を愛した印象派の画家

博物館

はじめに

今回は、印象派の巨匠のひとりである、アルフレッド・シスレーについて書いてみたいと思います。

 さて、印象派を代表する、「グレール画塾の4人組」=モネ、ルノワール、シスレー、バジールのうち、モネとルノワールについては、エピソードや資料が豊富に残されています。

それに対し、シスレーに関しては、数点の手紙と資料、2~3枚の写真、自分の絵についての一言が残っていて、居住地が知られている程度です。 どれだけ謙虚な人物なのかと思ってしまいます。
また、シスレーの引っ込み思案の性格と、批評家たちがシスレーを雪景色や洪水の風景を得意とする画家として片付けてきたことに起因するものでもあります。

シスレーの生涯

長くなってしまうので、要約して書きたいと思います。

 アルフレッド・シスレーは、1839年10月30日にパリで生まれました。
父はイギリス人で、織物を扱う裕福な実業家でした。
母もイギリス人で、音楽と文学を愛し、アルフレッドに影響を与えました。
兄1人姉2人の4人きょうだいでした。

アルフレッドは、若い頃は商業の修業をしたのですが、1860年の秋、絵の道に入るよう両親を説得して、シャルル・グレールのアトリエ(画塾)に入り、モネ、ルノワール、バジールらと出会いました。
若い頃親友だったルノワールによると、シスレーの性格は、気性が優しく、きわめて上品で、身だしなみが整っていて、ユーモアもあったそうで、他の人によるシスレーの人物像とも一致しています。引っ込み思案でしたが、今でいうナンパをよくしていたともルノワールは言っています。

 1866年に、花屋のマリールイーズ・アデライード・ウジェニー・レクーゼクと出会い、翌年、息子ピエールが生まれました。シスレーの父がこの関係を認めず、経済的支援を止めました。
さらに、普仏戦争が原因ですべての財産を失い、1879年に父が死亡して、シスレーは貧困に苦しむようになります。

 なお、他の印象派メンバーはどうしたかというと、モネとピサロはロンドンに逃れ、ルノワールは陸軍に行って赤痢で死にかけ、バジールは戦死しました。かわいそうなバジール!オルセー美術館所蔵の、バジール作「バジールのアトリエ、ラ・コンダミンヌ通り」は、バジールが亡くなる数か月前の、バジールがルノワールと共有していたアトリエ内を描いた作品です。
なお、共有ではなく、バジールのアトリエとする説もあります。

 終戦後、友人たちがパリに戻ってきて、一緒に制作したりしました。

 1874年に第1回印象派展が開かれました。シスレーは、グループ展8回中4回参加しました。

 1899年1月22日(シスレーの死の1週間前)に、ピサロはシスレーについて、「彼は偉大な、すばらしい芸術家であり、私の考えでは、最も偉大な芸術家にも匹敵する巨匠である。みごとな広がりと美しさをもつ彼の作品を見たことがあるが、『洪水』もその1つで、これは傑作だ」と語っています。

 晩年、シスレーはますます引っ込みがちになりました。健康の衰えは、パリでの印象派の集まりや、1890年にメンバーに選ばれたソシエテ・ナショナルの会合に出席しなくてよい口実になりました。
ときどきピサロと会い、ジヴェルニーのモネを訪ねましたが、ルノワールは、シスレーが死んだとき、15年以上会っていなかったと言いました。
シスレーは貧困に苦しみましたが、パトロンのフランソワ・デポーの好意で、旅行だけはできました。

 やがて、喉頭がんが発見されました。1898年に妻ウジェニーを舌がんで亡くしました。
シスレー自身の健康も急速に衰え、絵を描くことが不可能になりました。
モネを呼んで、子供2人の面倒をみてくれるよう頼み、1週間後の1899年1月29日に死去しました。モレの墓地に埋葬され、モネ、ルノワールらが立ち合いました。
1911年、モレに胸像が建てられました。

主な作品について

初期の頃(1860年代)

バルビゾン派の影響が強く、茶色が多く使用されています。

 

「アオサギのいる静物」

1867年 油彩・カンヴァス モンペリエ、ファーブル美術館

9点しかない静物画の1つ。バジールのアトリエで制作。
白いテーブルクロスのような物の上に、両脚を上に、翼を広げて首を曲げたアオサギの死体があります。
隣にツバメのような鳥の死体が2羽分あり、背景は真っ黒です。
さがしたら、似たような構図の、マネの花の静物画がありました。
また、バジールも、同じアオサギの主題に取り組んでいたようです。

1870年代

「ルヴシエンヌの初雪」

1871~1872年頃 油彩・カンヴァス ボストン美術館

 パリの西方のセーヌ河岸の高台に位置するルヴシエンヌ村を描いた作品。城館への入口が画面左側に見え、今日でもほとんどそのまま残っています。

1870年代初めから始まる雪景色の傑作の1つ。
木々の葉がまだ残っているので、クリスマス前に降った雪を描いたものなのでしょうか。
雪の量は多くなく、家々の屋根と道端に積もっていて、通りには雪はないようです。
右下に「A.Sisley」のサインあり。

「ヴィルヌーブ・ラ・ガレンヌの橋」

1872年 油彩・カンヴァス ニューヨーク、メトロポリタン美術館

 画面下3分の1が川の水面、左側に橋、橋の下に舟、中央の土手の上に家と木、そして大小の雲を浮かべた空が描かれています。
 この頃から画面が明るくなっていて、水面の光の捉え方にモネの影響がみられます。

 夏の風景画で、岸辺でくつろぐ恋人たちや、貸しボートに乗る2人の女性など、楽し気な雰囲気が伝わってきます。

「マルリのマシン」

 1873年 油彩・カンヴァス コペンハーゲン、ニイ・カールスベルク美術館

 「マルリのマシン」は、ルイ14世のために造られた大型噴水装置の一部のことです。
マシンはセーヌ川からパイプによって水を汲み上げ、水道橋がその水をマルリ城の庭園まで中継していました。
シスレーがこの地域に住むようになったとき、城は取り壊されたままでしたが、噴水だけは観光客向けに残されていて、1867年に新しいマシン小屋がブージヴァルに建設されました。
その小屋を描いたのがこの作品だといわれています。

 水の描き方が素晴らしく、透明感があり、建物と空の反映も丁寧に描かれています。画面左端には糸杉の巨樹が見えます。

「ルヴシエンヌの道の雪(マシン通り)」

1873~1874年 油彩・カンヴァス オルセー美術館、個人蔵

 ルヴシエンヌ村のマシン通りの、秋と冬の景色をそれぞれ描いた作品です。通りの右側の白い建物は、ルイ15世のお気に入りのデュ・バリー夫人の城館です。

 マシンとは、マルリ・ル・ロワの王室庭園へ水を供給するためにセーヌ川に設置されていた汲み上げ機械のことで、かなりの騒音を発していたらしいです。

 このようにシスレーは、同じモティーフを季節や天候を変えてよく描きました。

 1880年頃以降、シスレーは冬の戸外制作を避けています。1870年代の冬の戸外制作によって、たびたびインフルエンザやリューマチに悩まされたためと考えられています。

「霧の朝、ヴォワザン」

1874年 油彩・カンヴァス オルセー美術館

 今回取り上げた作品の中では、最高傑作の1つだと思います。画面全体が、白っぽい霧につつまれている、静かで美しい作品です。ひんやりとした空気感まで表現されています。雪景色や洪水シリーズほどの知名度はないらしく、画像が見つからなかったのが残念です。

 この作品は、ある秋の日に、ヴォワザンのシスレーの家の近くにある市場向け野菜畑と小さな自家用菜園が混在しているところで描かれました。

 「ルヴシエンヌの庭の小道(エターシュの小道)」

 1873年 油彩・カンヴァス 個人蔵

  雨がかすかに降る、秋の風景画で、個人宅の居間に飾るのにふさわしいと思われる作品です

 画面中央よりやや下に、左側の庭の柵の三角形の角と、右隅から奥へと延びる小道が接して三角形を構成しており、その奥の左右に民家、さらに奥に森が描かれています。
興味深いのは、画面中央奥に5本並んだ糸杉らしい樹木です。ゴッホの作品では、糸杉がうねるように力強く描かれ、画面を支配していますが、このシスレーの作品では、むしろ優しく、互いに寄り添うように描かれています。
激しいゴッホと、優しいシスレー。同じ種類の対象物でも、表現者によってまったく違った姿になることがよくわかります。

並べて展示されると、面白いかもしれません。

 この場所は、シスレーの家のバルコニーから見下ろした風景で、雨がちの秋の日を描いたこの作品と、真冬の光景を描いた作品があります。自宅のバルコニーから、このような美しい風景が眺められたとは、なんとも羨ましいです。

「ルヴシエンヌの雪」

 1875年 油彩・カンヴァス オルセー美術館

 エターシュの小道の別の区画の、大雪の日の風景です。

 画面中央よりやや下に、左右から延びた塀が接して三角形を構成し、道はその奥へと続いています。
奥には雪が降り積もった木々と建物、さらに奥には白くかすんで見える森と灰色の空が描かれています。
道の奥から手前に向かって歩いてくる、黒っぽい服装の女性が描かれていて、傘をさしていないので、今は雪は止んでいるのでしょう。
木々と塀の上の積雪は、うっすらとではなく、厚く積もっているように見えます。
道に積もった雪は、白い雪を何層にも重ね塗りして、歩きにくそうな様子に表現されています。
また、雪の日の静寂と、凍えるような空気まで伝わってくるようです。

「ポール・マルリの洪水」

 1876年 油彩・カンヴァス ルーアン美術館

 シスレーの代表作の洪水の連作の1つです。

 空は、薄い青なので、雨は止んでいるようですが、普段は地面の部分が、湖のようになっていて、人々が舟で行き来しています。

 画面左側3分の1を建物が占めています。1階部分の外壁は黄色っぽい茶色、2階は白で、「AS NICOLAS」と書かれていて、宿屋兼ワインの店の看板が建物の右側に突き出ています。屋根は緑です。この店は、現存しています。

 「黄金のライオン」という店を背にして、氾濫した水が打ち寄せる足元に、シスレーは画架を立てました。

「ポール・マルリの洪水と小舟」

 1876年 油彩・カンヴァス オルセー美術館

 1つ前に挙げた作品より、水が少し引いた状態を描いたものですが、まだ人々は舟で移動しています。空は明るい青色で、天候が回復してきている様子がわかります。

「ポール・マルリの洪水」

 1876年 油彩・カンヴァス マドリード、ティッセン・ボルネミッサ美術館

 水が引いて正常な状態に戻り、大型四輪馬車が埠頭沿いの道で仕事を再開した様子がわかります。先の2作品よりも、「AS NICOLAS」の店から離れた位置から見て描いています。晴れていますが、灰色の大きな雲が増えているため、また天気が下り坂に向かっているのでしょうか。

 この作品は、1877年4月にパリで開かれた、第3回印象派展に出品され、『印象派』誌の批評でジョルジュ・リビエルから「うっとりさせるような詩情」と賞賛されました。シスレーは、モネやピサロが被ったような酷評はあまり受けなかったようですが、賛辞も少なかったようです。

 「洪水」がテーマの作品は珍しいので、他の画家が目を付けなかったところに目を付け、生々しい現場を連作で描いて、復興の過程を写し取ったところに、代表作といわれる理由があるのかなと思いました。

1880年代

「モレのプロヴァンシェの製粉所」

1883年 油彩・カンヴァス ロッテルダム、ボイマンス=ヴァン・ベーニンゲン美術館

 シスレーの作品は、同じ場所の写真と比較すると、ほぼ忠実であることがわかります。この作品もその1つです。

 画面左から中央へ向けて橋が延び、画面の中心に製粉所の建物があって、木製の通路で橋とつながっています。1890年代には石橋になっていたようですが、この作品では、まだ木製の橋に見えます。

 手前の川の水面に光が反射し、透き通った水の中まで見えるような見事な描写です。

1890年代

「モレ・シュル・ロワン」

 1891年 油彩・カンヴァス 個人蔵

 ロワン川の向こうに見える、モレの夏の午後の景観を描いた作品で、今日残っているシスレーの作品の中でも、おそらく最も色彩豊かな作品の1つです。この町の現在の写真と比較しても、ほとんど変わっていないように見えます。

 シスレーは、モネに宛てた手紙の中で、モレを「チョコレートの箱」と表現しているそうですが、画面左半分に描かれている、アーチ型の橋と建物が、直線的で茶色がかっているので、適切で、またユーモアのある表現だといえます。

「朝の日差しを浴びるモレの教会」

 1893年 油彩・カンヴァス ヴィンタートゥール美術館

 モレのノートル=ダム教会を描いた作品は14点あり、天候や季節を変えて、すべて同じ角度(南西)から見た景観を描いています。おそらく、この角度からの景観が最も美しいと思ったのではないでしょうか。直線が強調され、光が当たっている部分と影の部分との違いがはっきりわかります。

 有名な、モネの「ルーアン大聖堂」の連作について、シスレーは実際には見ていないかもしれませんが、本人か友人から聞いて知り、刺激を受けて描いた可能性があるといわれています。

「ラングランド湾、ストールの岩―朝」

 1897年 油彩・カンヴァス ベルン美術館

 シスレーは1897年の夏の数か月を南ウェールズで過ごしました。最初にスワンシーにほど近いベナースに滞在したあと、海岸沿いのさらに西にある、ラングランド湾のオズボーンホテルに滞在しました。
想像するだけで、海岸の素晴らしい光景が浮かぶようです。
ラングランド湾の小さな入り江には、今日でもほとんど変わらない姿のストールの岩があります。
シスレーは、この岩をモティーフに5点の作品を描きました。翌年(1898年)に喉頭がんが発見され、急速に健康が悪化していったので、この作品群がおそらく最後に近い作品になったのではないかと思われます。

 ゴッホの、最後の(といわれている)作品が、画家本人の死を予兆するような表現が見えるのに対し、こちらの作品は、穏やかで美しい、いつものシスレーの作品です。まだ病気発覚前なので、本人も2年後に死ぬとは思っていなかったのでしょう。

🌸🌸🌸さいごに🌸🌸🌸

 2019年10月30日(水)~2020年1月20日(月)まで三菱一号館美術館にて開催されていた、「印象派からその先へー世界に誇る吉野石膏コレクション」を見に行きました。
今思うと、初日がシスレーの誕生日からちょうど180年後でした。
その企画展では、「シスレーの部屋」が1部屋用意され、シスレーの作品が6点展示されていました。そのほとんどが、モレとロワン川の風景を描いた作品でした。
私はそのときまでシスレーの作品をまとめて見たことがなかったので、貴重な体験になりました。

 私の記憶に誤りがなければ、解説パネルに、シスレーが亡くなったあと、モネとルノワールがシスレーの個展を開き、その収益をすべてシスレーの家族(おそらく2人の子供)に渡したと書かれてあったようです。印象派の画家どうしの友情と優しさに感銘を受けました。
画家の人間性は、その作品に表れているように感じます。

*なお、掲載の写真はすべて、無料使用可能なパブリック・ドメインから使用させていただきました。

 

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