女性画家そのⅠ―アルテミジア・ジェンティレスキ

博物館

アルテミジア・ジェンティレスキとは

1593年7月8日、ローマに生まれる。
カラヴァッジョ派の女性画家で、女性初の正式な美術アカデミーの会員です。
父オラツィオ・ジェンティレスキ(1563年~1639年)も画家です。

 当時としては珍しい女性の画家であったこと、裁判の記録が残っていることなどから、ジェンダー研究の対象としても知られています。

 アルテミジアという名前からは、月と狩りの女神、アルテミスを想起させられます。

生涯

神童時代

アルテミジア・ジェンティレスキは、1593年7月8日、ローマで、画家のオラツィオ・ジェンティレスキ(1563年~1639年)の第一子として誕生しました。
父の工房で、弟たちと一緒に絵画を学び始めましたが、きょうだいたちの中で唯一、アーティスト家系であった父方の一族の才能を受け継いで、優れた才能を見せました。父オラツィオは喜んで、彼女の将来に大いに期待を寄せたことでしょう。

父は、カラヴァッジョとも親しく、カラヴァッジョが画材などを借りに父の工房を訪れていたことから、アルテミジアも幼いころにカラヴァッジョと接点があり、画風に影響を受けたのではないでしょうか。

アルテミジアは、父からデッサン、色彩、明暗法を学んで父の技巧を継承しました。

父の画風はカラヴァッジョ派の特徴を伝えるものであり、彼女も強く影響を受けました。この頃の作品に「スザンナと長老たち」(三作品中の第一作)があります。

裁判

1612年(一説には1611年)、父オラツィオは、風景画家アゴスティーノ・タッシと共にローマのパラヴィチーニ・ロスピギオージ・パレスの装飾にとりかかりました。

父は、アルテミジアに、トスカーナ派の技法を身に付けさせるため、個人的にタッシを教師として雇いました。
しかし、このタッシという人物はだらしのない人間で、結婚するからとアルテミジアをだまして性的関係をもちました。
実は、タッシは既婚者で、しかも数人の女性を襲っていたのです。
当時、アルテミジアは18歳か19歳ごろですから、簡単にだまされてしまったものと思われます。やがて、二人の関係は父オラツィオの知るところとなり、激怒したオラツィオは、タッシを教会に訴えました。
将来を大いに期待していた大切な娘であり、しかも相手は信頼していた教師ですから、怒るのは当然です。

 裁判において、アルテミジアは、被害者であるのにもかかわらず、身体検査や、取り調べで拷問を受けるなどの憂き目に遭うことになってしまいました。タッシは八か月間入獄しましたが、アルテミジアは他の男友達とも関係があった、タッシとは親密な仲だったなど、タッシの友人らの証言により、最終的にタッシは無罪放免になりました。その一方で、被害者であるアルテミジアには、「売春婦」「だらしない女」などと不名誉なレッテルが貼られてしまいました。未成年の少女をだまして関係をもっておいて、だまされた側を責めるなど、現代の感覚では言語道断で、アルテミジアに同情します。

フィレンツェ時代

裁判からおよそ一か月後、アルテミジアは、事件で受けた精神的、社会的なダメージを回復するため、フィレンツェの画家、ピエール・アントニオ・シアテッシと結婚し、夫と共にフィレンツェへ移住。四人の息子と一人の娘(子供の人数については諸説あり)に恵まれました。

 フィレンツェの芸術院では、最初の女性会員として絵画アカデミーに受け入れられるという快挙を成し遂げました。また、フィレンツェでは、メディチ家の後ろ盾を得て、有力なパトロンに恵まれました。学者のガリレオ・ガリレイとの手紙も現存しています。 

 このように、アルテミジアは、トラウマを乗り越え、画家としてフィレンツェで成功をおさめました。

ローマ時代以降

1621年、アルテミジアは、フィレンツェから出身地のローマへ戻りました。
せっかくフィレンツェで画家として成功していたのにもったいないと思いますが、一説には、娘の養育のためといわれています。
また、当時のローマではカラヴァッジョ派が大流行していて、ヨーロッパ全土から芸術家が集まっていたそうなので、アルテミジアもローマでの成功を期待していたことでしょう。

 アルテミジアは、ローマの芸術院に所属しましたが、期待していたほどの評価を得られず、1627年にヴェネツィアへ移住しました。

 この時期の主な作品としては、「ユディトとその侍女」「眠れるヴィーナス(ヴィーナスとキューピッド)」などがあります。

 1630年にはナポリへ移住しました。以後は、短いロンドン旅行を除き、ナポリを拠点に活動しました。ナポリはアルテミジアにとって「第二の故郷」ともいえる場所だったようです。
ナポリでは、教会の大聖堂の絵画を描いたり、ユディト、スザンナ、マグダラのマリアなどをモティーフにした作品を描きました。

 1638年、アルテミジアはロンドンに旅行し、25年ぶりに父と再会しました。
父は、チャールズ1世お抱えの宮廷画家となって、宮殿の天井画を描いていました。
この仕事をアルテミジアも手伝い、1639年の父の突然死のあともロンドンに留まりましたが、1642年にイングランド内戦がはじまるとイギリスを離れたと考えられています。

 その後、ナポリへ戻り、1652年(一説には1653年)に死去しました。晩年の作品として、「ロザリオの聖母子」などがあります。

没後

1970年代に、美術史における女性芸術家の再評価が行われ、また、類まれな才能をもつ、カラヴァッジョ派を代表する画家の一人として、アルテミジアは根強い人気を集めてきました。

 2010年代には、オークションで、アルテミジアの作品が破格の値段で落札され、話題を集めました。

人物像 

アルテミジアの人物像については、さまざまな記録や、残された作品から推し測ることができます。

 裁判では、被害者であるはずなのに、彼女に原因があるかのように扱われたり、身体検査や拷問などの理不尽な扱いを受けてしまい、タッシからの仕打ち以上に苦痛だったのではないかと推測されます。
父親が、自分自身の名誉のために起こした裁判であり、彼女は、公の場でさらし者になることを望んでいなかったのではないでしょうか。
しかも、彼女は当時まだ18歳か19歳でしたから、彼女が体験した恐怖や恥ずかしさは、言葉では表現することのできないほどのものであったと想像できます。

 裁判では負けてしまいましたが、アルテミジアは、その後、トラウマを克服し、女性解放運動の象徴とされました。
私は、はじめて「ホロフェルネスの首を斬るユディト」を見たとき、あまりの残酷さに正視することがなかなかできませんでしたが、作者が、つらい過去を乗り越えて偉業を成し遂げた人物であるということを知って、作品の印象がまったく変わりました。

 結婚後、アルテミジアは、25年間、父親と距離を置きました。
父親の所有物のようで、苦痛だったのかもしれません。彼女の作品に登場する、スザンナ、ルクレツィアなどは、男性社会の犠牲になった、またはなりかけた人物ですし、ユディトは立ち向かって克服した人物であるともいえると思います。
アルテミジアは、父との再会後、天井画の仕事を手伝ったということは、例えば、関係を改めましょうなどと、なんらかの話をしたのかもしれません。

そのときのアルテミジアの顔は、落ち着いて自信に満ちた、ユディトの顔だったのではないでしょうか。
再会の一年後の父の突然死は謎めいています。

 自画像や、ユディトの顔から想像されるアルテミジアのイメージは、可憐な美女というよりは、「美しいけれど、たくましさもある」というイメージです。それは、弓を携え、猟犬を引き連れて狩りをする、女神アルテミスの姿に重なります。

代表作品

「ホロフェルネスの首を斬るユディト」

1612年、1620年ごろ。油彩・カンヴァス。ウフィツィ美術館(フィレンツェ)

 題材は、旧約聖書外典の「ユディト記」。
ユディトとは、エルサレム近郊のベツリアという町に住む未亡人の名前で、クリムトも描いています。
ベツリアの町が、アッシリアの将軍ホロフェルネスによって陥落する直前に、アッシリア側に寝返ったと見せかけホロフェルネスの陣営に侍女一人を伴って潜入します。
そして、ホロフェルネスと一夜を過ごしたあと、眠っているホロフェルネスの首を剣で切り落とし、侍女が持つ袋に入れ、ベツリアへ持ち帰りました。
指揮官を失ったアッシリア軍は混乱し、退散しました。ユディトは、町を救った英雄として賞賛されました。

 1612年と1620年に制作された同じ題材の二作品があり、ほとんど同じ場面が描かれています。
闇を背景に、侍女がホロフェルネスの体を押さえつけ、ユディトがホロフェルネスの首に剣を突き刺しているシーンです。
剣の柄に十字架があり、この行為は‘’神の制裁‘’であることを表わしています。
二つの作品の違いは、1612年の作品の方は、ユディトが青いドレスを着ていて、ブレスレットを腕に付けていません。
1620年の作品の方は、ユディトの太い腕にアルテミス(狩りと月の女神のギリシャ名)の名が描かれたブレスレットが付けられています。

 

メイ
メイ

「この絵の作者はアルテミジア」だと名乗っているのでしょう。

 第一作が制作されたのはタッシの事件の直後ですから、ホロフェルネス=タッシまたは、不公平な男性優位社会の象徴であり、画家=ユディトに殺させることで、作品の中で復讐を果たしたのでしょう。

「スザンナと長老たち」

全三作品あります。油彩・カンヴァス。

 題材は、旧約聖書「ダニエル記」です。
裕福なユダヤ人の若妻スザンナは、庭で水浴することを習わしにしていました。
それを知った二人の長老が、女中が下がったすきにスザンナに言い寄り、自分たちと関係しなければ、姦通していると言いふらすと彼女を脅しました。


スザンナはこれをきっぱりと退け、二人は逆恨みで彼女を姦通罪で訴えました。
当時、姦通罪は重罪です。スザンナが死罪に処される直前、疑問を感じた預言者ダニエルが、二人を別々に尋問してその嘘を暴き、スザンナの無実を証明して、告発者が処刑されたという内容です。

 同じ主題で三作品あるうち、第二作だけ趣が異なります。
他の二作品は、スザンナが長老たちを激しく拒絶しています。


第二作は、白い布と手で裸身を隠してはいるものの、顔は無表情で、拒絶や嫌悪感、恐怖感などは表現されていません。これは、一体なぜでしょうか。
一説には、第二作が制作された時期は、アルテミジアは、売れる絵を描く必要性があり、市場の好みに合った、自己主張しない女性像を描いたのではないかともいわれています。
しかし勿論、彼女が本当に表現したかったのは、第一作と第三作の、はっきりと自分の意思を表す女性像だったのだと思います。

【コラム】カラヴァッジョとは

メイ
メイ

一言で言えば、「人生も作風も過激!」

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(1571年~1610年)ミラノ出身

【代表作】
「果物籠を持つ少年」
「果物籠」
「聖マタイの召命」
「ユディトとホロフェルネス」
「エジプトへの逃避途上の休息」

【生涯】
21歳ごろ、ケンカが原因でミラノからローマへ逃亡
デル・モンテ枢機卿に知り合いを紹介してもらう。
リアルさを追求し、強烈な明暗を使って作品を仕上げます。
このころの代表作が、「果物籠」「聖マタイの召命」

世間の評判は、「下品で暴力的」
賛否両論ありましたが、話題性で注文が殺到します。
ローマの裁判や警察の記録に、7年間で10回以上名前が登場します。

つまり、1年に1回以上は事件を起こしていたことになります。
裏社会の人間からも恐れられます。

1606年に、遂に殺人事件を起こし、ナポリへ逃亡
1610年に謎の死を遂げます。
リアルな作風が、教会のメッセージを伝えるのに最適であったため、教会の上層部からは好まれました。

リアリズム、光と闇のコントラスト、ドラマティックな場面設定などの特徴を持つ作品を残し、カラヴァッジェスキと呼ばれる多くの模倣者を生みました。アルテミジアも、作風だけでなく、主題の選択においても、強く影響を受けています。

★掲載した写真はすべて、無料使用可能のパブリック・ドメインのものです。

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